68

平成29年1月1日
■目次■

・<琴棋書画図〈西衣鉢之間東面〉>
・<玉林院覚え書き ―霊元天皇と玉林院(上)― 檀家 加地安寛>
・<青年仏教講>
・<編集後記>
トップページへ戻る

   
 

【琴棋書画図〈西衣鉢之間東面〉】

   
   

囲碁を楽しむ童子を高士が立って眺める図で、 右端二面は遠山と水流だけである。 このように洞雲筆「琴棋書画図」は、四面を単位として構図されている。 これは安信の中檀那之間などと似た構成である。 洞雲(益信)は、表絵師諸家のなかでも第一の格を有した駿河台狩野家の創始者である。彫金家後藤益乗(光次)の子として生まれ、 探幽の養子となったが、 探幽に実子探信、 探雪が生まれたため、義絶して別に一家を成したと伝える。 本図を描いた寛文九年(1669)は45歳に当る。

     
目次へ    
 

玉林院 覚え書き

   
  霊元天皇と玉林院(上)檀家 加地安寛  

 玉林院には、霊元天皇宸筆(しんぴつ)の和歌の掛物が伝えられています。 拝見しましょう。
(読み)
 万代(よろずよ)を 松の尾やまの かげしげみ
君をぞいのる ときはかきはに

(意味)
 松尾の山に茂る松の濃い緑が大昔からずっと変わらないように、(大殿(おおとの)の)ご安泰がいついつまでも続きますようにと祈る。



 霊元天皇(1654―1732)は御名を識仁(さとひと)といい、後水尾(ごみずのお)天皇の皇子です。 御母は新広義門院藤原国子。
 寛文三年(1663)、数え年十歳で、兄さんに当る後西天皇から譲られて第百十二代の皇位を継がれました。
 図示しましょう。


 貞享四年(1687)、皇子朝仁親王に譲位されます。東山天皇で、この皇統が今の天皇に続いているのです。


 霊元天皇は在位24年。 寛永時代は既に去って、元禄時代を迎える前の、江戸時代の前期中頃の天皇であったわけです。 当時、徳川幕府はもう四代家綱から五代綱吉の時代になっていました。 それでも霊元天皇の時代は、朝幕関係に緊張が続いていました。
 霊元天皇は上皇になられてからも、朝廷の儀式の復興、旧典の尊重に尽力される一方、公卿らと共に修学院離宮などの風光を賞で、詩歌に歓を尽くされたようです。
 享保十七年(1732)、79歳で崩御。 東山泉涌寺にある御父以来の月輪陵に葬られました。



 ところで、この宸筆の和歌は、調べてみると霊元天皇の御製(天皇御自作の和歌)ではないのです。ですから、これは霊元天皇宸筆の古歌というべきでしょう。 この和歌は次の三つの古典に出ています。
   類聚歌合(るいじゅううたあわせ)(平安後期成立)
   梁塵秘抄(りょうじんひしょう)(平安末期成立)
   新古今和歌集(鎌倉初期成立)
 上の中で、最も古く、またこの和歌の成立事情について最も詳しく書いてあるのは類聚歌合です。少していねいに見て参りましょう。



 「歌合せ」というのは、ふつう何人かの歌人が、予め出された題に従って、お互いに自作の和歌を持ち寄って、優劣を競い合う一種の「遊び」です。平安時代から鎌倉時代にかけて、宮廷を中心によく催されました。全く形を変えてはいますが、現在の『新年歌会始め』に続いているのです。
 主催者から招かれた何人かの作者が「左右」に「方分け(かたわけ)」されて進めていきます。 勝負は作者だけでなく、どちらを多くとるかで、「方人(かたうど)」のグループの名誉になるのです。
 よく似ているのが、歌合せよりも古くからあった宮中の年中行事の「節会相撲(せちえすまい)」で、やはり取り組みを一番二番と勘定します。 今の大相撲では「左右」でなくて「東西」になっています。当時の「花合せ」「根合せ」「絵合せ」なども同じようにして優劣を競うものでした。
 一番(一対)の和歌を比較して「勝」を定めるのは、 主催者から依頼されたその時代の和歌の権威者で、この人を「判者(はんじゃ)」といい、その理由を述べた言葉を「判詞(はんし)」とよびます。 どうしても勝負が決められない時は「持(じ)」とします。題を出すのも多くは判者です。
 これは大概盛大な宴会や遊戯を伴いましたが、この歌合せの場が「和歌」という文芸の発展に大きな功績をもたらすことになりました。世界的にも珍しいことではないでしょうか。



 この「万代を」の和歌は「類聚歌合」では「嘉保(かほう)元年八月十九日前関白師実(さきのかんぱくもろざね)歌合」として出ています。
 即ち、平安後期の嘉保元年(1094)八月十九日に、藤原師実(1042―1101)が主催した歌合の会でした。
 師実は、御堂(みどう)関白と称されて有名な藤原道長の孫で、平等院鳳凰堂を発願した宇治関白頼通(よりみち)の子です。 彼はこの年の三月まで関白の座にあり、この頃の堀川天皇の外祖父でした。権勢を極めた摂関家流藤原氏の本家の主人です。 彼も個人の和歌集として「京極関白集」をのこしています。
 季節は仲秋の名月を少し過ぎた頃、場所は藤原氏の幾つもあった立派な邸宅の中でも、 栄花(えいが)物語に、「高陽院殿(かやのいんどの)の有様この世のことと見えず」とまで賛えられた高陽院、 現在の堀川丸太町の東方一帯にあった(先年の発掘調査でその位置が確かめられた)その本邸とでも言うべき所でした。
 この日、 招待された歌人は男女各七人。 全員で十四人。 女性七人が「左方」に、男性七人が「右方」になりました。 男女対抗です。 この日の出題は、春(桜)、夏(郭公(ほととぎす))、秋(月)、冬(雪)、祝の五つでした。
 十四人が、 各自五首ずつ提出しますから、全部で七十首ということになります。
 それを左方からと右方からと、 同じ題を詠んだ和歌を一番として組み合わせ勝負を決めたのです。 この日の判者は当時歌壇で信望の篤かった帥大納言(そちのだいなごん)源経信(つねのぶ)卿でした。
 それではこの「万代の」の和歌は 、その中のどこにあるのでしょう。 「祝」の部の二番目の左方で、作者は「紀伊」という名の女性でした。 詳しいことは不明ですが、後朱雀(ごすざく)天皇の皇女祐子内親王(1038―1108)に仕えた女官で、他のものにもこの人の名が見える所からも当時かなりの歌人だったことがわかります。
 相手は、讃岐守(さぬきのかみ)藤原行家(ゆきいえ)の歌で、判定は「持」でした。  (次号につづく)

     
目次へ    
 

青年仏教講

   
  <第二回 仏教の歴史(二)>

 仏教はお釈迦様の誕生により始まりました。チベット山脈のふもとにあったカピラヴァスツ国の王子、ゴータマ・シッダッタがすべての生活を捨てて、人は何の為に生きるかを追求する為に修行の道に進みました。悟りを開かれた後にブッタ(目覚めた人)(悟った人)と呼ばれるようになり様々な人たちが説法を聞き、弟子も増えました。ブッタが亡くなった後も説法は弟子により伝えられ、チベット・インド仏教が広まりました。やがて仏教は様々な僧により中国に広まりました。次回は中国仏教について話をしていきます。

玉雲 合掌

 
     
目次へ    
 

編集後記

   
 

▼京都には『床もみじ』で有名なお寺があります。実は、…玉林院でも!。本堂改修により内廊下は、畳から板張りとなり『床もみじ』が出現したのです。本堂の廊下拭きをご奉仕ご奉仕くださっている無心塾の方が「日の高さ、奥行きによって色彩の濃い淡いが変化し自然の美しさに魅了されました。」と。※無心塾=保育園を使って合気道の稽古をしている会です。三十年以上毎週月曜日の朝、ご奉仕くださってます。(床もみじをお見せしたい雅)
▼加地先生の『玉林院の歴史』をパソコン入力して、霊元天皇に興味を持ちました。霊元天皇は、後水尾天皇の路線を引き継ぎ皇室再興を目指し、徳川幕府とは距離を置いたため幕府との間は、緊張状態が続いていたとか。江戸時代の歴史は、徳川幕府中心ですが、朝廷の歴史にも関心を持ってゆきたいです。(幸)

 
     
目次へ