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第64号 平成27年8月1日 |
■目次■ |
・< 鶴図〈大書院南面〉> |
【 鶴図〈大書院南面〉】 |
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松竹梅に丹頂鶴を描き丹頂などにわずかに朱を施している。「狩野探雪図」と署名し「探雪印信」を左隅下に捺す。この障壁画を制作した寛文九年(1669)は15歳に当る。父探幽のように早熟の例もあり、探雪自身もこれより6年も早い内裏の襖絵の制作が伝えられるぐらいであるから異とすべきだはないかもしれないが、安定した構図は探幽の手になるものではないかとも考えられる。
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玉林院 覚え書き |
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玉林院の成り立ち | |||
檀家 加地 安寛 |
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一、 月岑和尚の開院まで
二、三人の曲直瀬道三(まなせどうさん)
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子孫の方々はそれぞれに、京都や江戸で名高く、 門弟に連らなる多くの医家が玉林院の檀信徒でした。 もう一人の弟子、曲直瀬道三正紹(1549−1631)は正親町天皇の典医になって、延寿院法印と称し、医家として名声を博しました。 ところが豊臣秀次の侍臣でもあったことから、例の事件の余波を受けて、常陸の佐竹義宣方に流罪の身となったのです。しかし、 慶長三年、 後陽成天皇の典医に帰り、「常山方」十二巻の著書を完成しました。 その後、徳川幕府の医官となり江戸に下り、今大路を称しました。 この人も早くから月岑和尚に帰依して禅道に参じ、東下してからは、江戸渋谷に月岑和尚のお弟子で玉林院三世の龍岳宗劉和尚(本山164世、1557−1628)を請じて開祖とし祥雲寺を建立して、一族の牌所としました。 こうして祥雲寺は玉林院の末寺となったわけです。 以上のように、義兄弟であったこの二人は、それぞれに月岑和尚への篤い帰依を全うしたのでした。 三、有馬家と玉林院
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客殿の大松が、すっきり! |
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玉林院には多くの木々があります。先代和尚は大切にされており、和尚も先代和尚の意思を守ってこられました。しかしここ近年、木も大きくなり枝や葉が繁り過ぎてしまいました。今回せっかくの素晴らしい木を美しくしたいとの申し出を受け大掛かりな剪定をいたしました。松は力強い枝が姿を見せ、路地には太陽の光を受け心地よい風が流れます。また葉が茂り変わりゆく姿を楽しみにしております。(寺) |
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編集後記 |
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▼「玉林院の成り立ち」(加地安寛氏)にも書かれている襖絵と杉戸。先年の玉林院大修理の時には、襖絵の根本的な修復には及ばず、又痛みの激しい杉戸は川面美術研究所による記録保存を年頭にした推定復原図にとどまりました。 |
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