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平成27年8月1日
■目次■

・< 鶴図〈大書院南面〉>
・<玉林院覚え書き ―玉林院の成り立ち―> 加地 安寛
・<客殿の大松が、すっきり!>
・<編集後記>
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【 鶴図〈大書院南面〉】

   
   

松竹梅に丹頂鶴を描き丹頂などにわずかに朱を施している。「狩野探雪図」と署名し「探雪印信」を左隅下に捺す。この障壁画を制作した寛文九年(1669)は15歳に当る。父探幽のように早熟の例もあり、探雪自身もこれより6年も早い内裏の襖絵の制作が伝えられるぐらいであるから異とすべきだはないかもしれないが、安定した構図は探幽の手になるものではないかとも考えられる。

     
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玉林院 覚え書き

   
  玉林院の成り立ち  

檀家 加地 安寛

一、 月岑和尚の開院まで
 玉林院の開祖月岑和尚がお生まれになったのは京都です。 永禄3年(1560)、織田信長が今川義元を「桶狭間の戦」で破った年です。

 「大森氏系図」によりますと、和尚の誕生は「今出川新町」で、そこを俗に「大森町」と呼んだとあります。現在の上京区総合庁舎のある辺りでしょうか。 大森氏は平重盛の子孫大森盛長を祖とし、 足利氏に属した。 月岑和尚は、戒名を「巖松乗信居士」という方の御子息で、 その後の大森氏は加賀の前田家に客分として仕えて幕末に至ったと言うことです。
 今は北海道に在住。

 月岑和尚が何時なぜ出家されたかを私は存じませんが、 天正8年(1580)12月8日の日付のある師匠古渓和尚からの「宗印諱付与状」があり、これは月岑和尚21歳に当たります。

 古渓宗陳和尚(本山117世、1531−97)は越前の朝倉氏の出で、当時の大徳寺を代表する高僧でした。 利休居士の師匠でもあり、豊臣秀吉の絶大な信任を得て大徳寺に桃山時代の盛大をもたらしました。 しかし、その後、九州配流など秀吉の迫害にもあいましたが、月岑和尚は常に師匠に随侍して、愛弟子としての「孝行」を尽くされました。

 月岑和尚もやがて慶長5年、大徳寺142世の座に登り、同8年(1603)には玉林院の開祖となられました。 44歳です。 ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開いた年でした。


二、三人の曲直瀬道三(まなせどうさん)
 室町時代の終りから江戸時代の始めにかけて、同じく曲直瀬道三を称する3人の有名な医家がおられました。
 最初の道三はお師匠さんで、あとの2人は共にお弟子で、養子で、 孫娘の夫でした。
 3人とも、宮廷や豊臣氏徳川氏に重く用いられていました。 しかし、ここで最も興味を引くのは、お弟子の2人が共に月岑宗印和尚に篤く帰依していた点です。 また、3人は共に茶人でした。

 師匠の曲直瀬道三正慶(1507−95)は近江の生まれですが、古来有名な足利学校で儒医学を学びました。 帰って天文の末頃から京都に医学校を設け、 20数年に亘り多くの子弟を教育しました。 当時としては画期的な診療実験に基づく医学でした。 まさに近世医学の元祖というべき人物でした。
 天正2年、それまでの研究を「啓迪集」8巻にまとめ、 正親町天皇に献上し、翠竹院の称号を賜っています。

 次に、 お弟子の1人、曲直瀬道三正琳(1565−1611)は養安院を号し、 師匠の名跡を継ぎ医官となり、法印の位を許されました。 特に有名なのは豊臣秀吉の侍医としての役割でした。 織田信長の弟有楽斎らとも親交があり、師匠と同じく茶の湯に深い造詣がありました。
 早くから月岑和尚の禅に心を投じ、一族や同門と共に殿舎を造営し、 慶長8年の春、一族の菩提所として玉林院を創建しました。 39歳でした。
 しかし、当初の建築は僅か6年後に火災にかかり、正琳もそれから2年後に逝去したのです。 復興の目途も立っていなかった時ではなかったでしょうか。

 子孫の方々はそれぞれに、京都や江戸で名高く、 門弟に連らなる多くの医家が玉林院の檀信徒でした。  もう一人の弟子、曲直瀬道三正紹(1549−1631)は正親町天皇の典医になって、延寿院法印と称し、医家として名声を博しました。 ところが豊臣秀次の侍臣でもあったことから、例の事件の余波を受けて、常陸の佐竹義宣方に流罪の身となったのです。しかし、 慶長三年、 後陽成天皇の典医に帰り、「常山方」十二巻の著書を完成しました。 その後、徳川幕府の医官となり江戸に下り、今大路を称しました。  この人も早くから月岑和尚に帰依して禅道に参じ、東下してからは、江戸渋谷に月岑和尚のお弟子で玉林院三世の龍岳宗劉和尚(本山164世、1557−1628)を請じて開祖とし祥雲寺を建立して、一族の牌所としました。 こうして祥雲寺は玉林院の末寺となったわけです。  以上のように、義兄弟であったこの二人は、それぞれに月岑和尚への篤い帰依を全うしたのでした。


三、有馬家と玉林院
 有馬家は歴史上に有名な赤松氏の支族です。

 赤松氏は鎌倉時代以来の播磨の豪族で、大徳寺とは特に縁が深く、南北朝時代の名将赤松則村(円心)の姉は大徳寺の開山大燈国師の母君であると伝わり、彼は大徳寺開創の大檀越です。
 室町時代には播磨・備前・美作三国の守護で三管領四職の中の四職家の一つとして幕府政界の重鎮でした。

 有馬家はその分流で、有馬温泉のあの地名に由来しています。
 有馬豊氏(1569−1642)は、豊臣秀吉、後に徳川家康に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、元和六年(1620)には、功績によって筑後久留米二十一万石に封ぜられました。 幕末まで続く久留米藩の藩祖です。 豊氏はまた、「茜屋肩衝」という茶入れを所持した大名茶人の一人でした。

 江戸時代の初め、 諸大名家では参勤交代の制もできて、 国元(城下)と江戸(藩邸)とに居住しましたから、両方に菩提寺が必要でした。 さらに、その上に有力大名(多くは茶人)は競って京都の大徳寺に菩提寺を持とうとしたのです。 玉林院の北隣の高桐院は、細川ガラシアの夫で豊前小倉(後に熊本)三十六万石の藩主細川忠興(利休七哲の一人)、南隣の龍光院は昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」(利休の門人)の菩提のために、子息の筑前福岡五十二万石の藩主黒田長政が建てたお寺です。
 有馬豊氏は江戸の菩提寺として、先に述べました曲直瀬正紹が建てた祥雲寺を定めました。 そして、その本寺である玉林院を大徳寺での菩提寺としたのでした。 四條西洞院にあった久留米藩京屋敷からは藩主の代理(代香)が盆、正月、歴代の忌日には玉林院へ来て、 墓塔への参詣を欠かしませんでした。
 今も玉林院にある「春林院殿(有馬豊氏)肖像」は金襴表装の華麗な軸物ですが、それには衣冠正装の豊氏の画像があり、上には玉林院四世の仙渓宗春和尚(本山189世、1605−84)が謹厳な麗筆で「当院中興大檀那」と着賛されています。

 開創以来の檀信徒家に加えて、有馬侯を筆頭とする外護者も出来、さらに祥雲寺の他にも末寺が創建されました。
 四世仙渓和尚を開祖とする江戸麻生の天真寺、下野那須郡の東江寺、美濃可児郡の吉祥寺。五世仰堂宗高和尚(本山222世、1629−87)を開祖とする水戸の常照寺、近江の清泉寺などがそれです。
 開祖月岑和尚はその「御遺誡」の中で「当院の知行とてはわづかの儀なり。 檀徒とてはこれなく」と御心配を漏らしておられた状況が、和尚方の御尽力と時勢の展開によって、半世紀程の間に漸く改善されたと思われるのです。

 有馬豊氏の孫で、三代藩主の有馬頼利(霊源院殿)は寛文八年(1668)に17歳の若さで故くなりました。 それを継いだのが弟で四代藩主の有馬頼元です。 翌年、この人が恐らく兄の一周忌追善のために、有名な狩野探幽に制作を依頼し、玉林院に寄進したのが今も客殿(本堂)の内部に拝見できる重要文化財の襖絵です。 全体で襖絵八十二面(十二面は後補)と杉戸絵十面です。
 玉林院に遺るこの膨大な狩野派一門盛期の作品群は他に全く例を見ないものです。 特に室中(仏間)の「探幽法印行年六十八歳書」と自筆署名のある草体山水図十六面は晩年の彼の至り得た最高傑作と言われています。 なお、それらの水墨画とは趣を異にするのが、客殿の西と北との入り側縁を飾る藤・棕櫚・蘇鉄の彩色画です。 その鮮麗優美な藤の絵の前に立つ時、 今、自分が禅院の奥にいることの深い安らぎをつくづくと思うのです。
 先年完了した平成大修理には客殿の建築だけでなく、これらの襖絵などの修復にも、その重要さに配慮して最大の注意が拂われたと伺っています。

 有馬家の他にも、筑前福岡の黒田家、大和小泉の片桐家、柳本の織田家、洞雲庵の桑山家などの武家が幕末までそれぞれに玉林院の外護の役割を果たして来ました。

 しかし、一方社会経済史の流れは武家の石高を基盤とする時代から町人の貨幣を基準とする時代へと大きく変動して行きました。
 ここに大阪の豪商鴻池家の登場があったのです。
 元文五年(1740)、鴻池家の四代宗貞は玉林院の八世大龍宗丈和尚(本山341世、1694−1751)にお目にかかり、早速に祠堂南明庵などの造営の相談も進み、ここに江戸時代後半からの有力檀家としての鴻池家の貢献が始まりました。そしてそれが明治時代に及ぶのです。

     
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客殿の大松が、すっきり!

   
 

 玉林院には多くの木々があります。先代和尚は大切にされており、和尚も先代和尚の意思を守ってこられました。しかしここ近年、木も大きくなり枝や葉が繁り過ぎてしまいました。今回せっかくの素晴らしい木を美しくしたいとの申し出を受け大掛かりな剪定をいたしました。松は力強い枝が姿を見せ、路地には太陽の光を受け心地よい風が流れます。また葉が茂り変わりゆく姿を楽しみにしております。(寺)

 

     
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編集後記

   
 

▼「玉林院の成り立ち」(加地安寛氏)にも書かれている襖絵と杉戸。先年の玉林院大修理の時には、襖絵の根本的な修復には及ばず、又痛みの激しい杉戸は川面美術研究所による記録保存を年頭にした推定復原図にとどまりました。
▼大庫裏再現と共に、次の世代への課題となっております。(雅)
▼玉林院は安土桃山時代から江戸時代初期の医師、曲直瀬道三正琳によって創建されたのはご存じかと思います。しかし、玉林院を支えたのは曲直瀬道三の関係者だけではありません。有馬家、黒田家、鴻池家等々、多くの檀家たちに支えられ、開山から四百年以上たった現在も存続しています。
▼加地先生ほど文章は上手ではないですが、私も玉林院の歴史を次の世代に伝えられたらと思います(幸)

 
     
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