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平成21年1月1日
■目次■

・<桟唐戸彫刻>
・<修理事始−月岑和尚様の建てられた二つの本堂−> 修理担当 森田 卓郎
・<幕末維新に消された男〜小出大和守−[後編]> あさくら ゆう
・<本堂修理委員会だより> 事務局長 杉原 賢一
・<編集後記>
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【桟唐戸彫刻】

   
   

 本堂の正面中央にある桟唐戸は、室中ノ間・仏間に入るためのもので、一際目を惹く立派な造りをしています。この両開きの桟唐戸の片方は、丁番で折り畳むことができる二枚一組でできていて、両折(もろおれ)の桟唐戸と呼ばれています。開けきると、間口部一杯が開放となり、しかもコンパクトに戸脇に納まってしまいます。桟唐戸には、仏間に花を手向けるかのような装飾的な彫刻が施されています。ここにあげた彫刻は、桟で縦横に区画された戸の上部に嵌められた花狭間(はなざま)と、最下部の表裏に嵌め込まれた浮彫り彫刻です。 花狭間の菱格子の交点には花、浮彫り彫刻の正面側を花と唐草、背面側を渦に唐草をモチーフとしています。彫刻には各時代の様式があり、建物の建立年代を知る手がかりともなります。

     
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修理事始 -月岑和尚様の建てられた二つの本堂-

   
 

玉林院本堂修理事務所より[十九]

 

修理担当 森田 卓郎


 6年間の長きに及ぶ玉林院本堂の修理工事も、最終章を迎えています。みなさまのご理解、ご協力によりつつがなく工事を終えようとしています。

 修理工事の始まった当初、どうしても解明したいことが念頭にありました。それは、月岑和尚様によって慶長8年(1603)に創建された本堂(当初本堂とする)は、6年後に総て灰塵に帰してしまうのですが、その後20年近くの歳月を費やして再建を果たした現本堂(以下再建本堂とする)と同じ規模をもった建物であったかどうかということです。
 一般的な本堂の間取りは、普通六間で構成されていますが、玉林院本堂の場合は西側にさらに二間多い八間取りで、再建本堂の建物規模は大徳寺山内では本山の方丈(国宝)に次いで大きいのです。それが当初本堂に倣ったものか、それとも再建の時に規模を大きくして建てられたものかどうかに関心がありました。

 最初の頃に行った調査では、当初本堂の焼失痕跡、これが少し地面を掘れば赤茶けた土の層として表われてくるはずでしたが、それもはっきりとは判りませんでした。ただ、再建本堂のために据えつけた柱礎石の埋土に、赤茶けた土と炭の小片の混じった土が使われていたので、それが焼失の痕跡を示しているもだと考えました。
 その後、本堂の東側に、かつての庫裏に続く廊下の一部を復原するために、その周辺を整地していた際、ようやく本堂と玄関境の東側の一画で一面の赤茶けた焼土層も見つかり、当初の本堂焼失の跡をまざまざと目の当たりにすることができました。
 しかしこの時点では、当初の本堂と再建本堂とは、全く同じ場所に建てられているものと推測していたので、当初と再建本堂の規模の違いの有無は判らない状況にありました。

 修理工事も後半を過ぎた頃、本堂中央部の仏壇廻りの復原のために、その周辺の地面を調べて見ました。すると、再建本堂のそれぞれの礎石の据付け穴の北西1メートルぐらいの位置に、埋められた穴状の痕跡があるのです。この穴の痕跡位置が当初の礎石が据付けられていたものと考え、防災施設工事の配管経路に位置する他の2箇所についても調べてみました。すると、やはり同様の位置に穴状の痕跡があり、埋土を除いてみると穴の堀底に根石と呼ばれる礎石を据付けるための小石が幾つも見つかりました。
 これらのことにより、この穴状の痕跡は礎石の抜取り穴で、当初の本堂は再建に際して1メートルぐらい南東にずらして建てられていることが確認でき、ほぼ同じ間取りでたてられていることも推測できました。しかし、これではまだ当初の本堂と再建本堂は同じ規模で建てられたとは断定できません。

 修理工事も最終盤に入り、後始末に精一杯で、もう調査を落ち着いてしているような場合ではない時でした。最後のチャンスと意を決し、本堂の軒内の土間叩きを施工する直前に、本堂の北西の隅柱の礎石周辺を調べてみました。この礎石の北西1メートルぐらいの位置から、当初本堂の礎石の抜取り穴の痕跡が見つかれば、まさしく当初の本堂と再建本堂との規模は同じだということを決定づけることができます。
 果たして、そのとおりに抜取り穴の痕跡はでてきました。そうです、月岑和尚様は、当初本堂と全く同じものを20年近くの歳月をかけて再建本堂で実現したのでした。そういえば、20年という歳月が流れる中で、建築の形式にも少しずつ時代の変化が生じているのにもかかわらず、再建本堂に古式な形式が残るのはそのためであることがうなずけました。その時、一瞬にして総てを失った月岑和尚様のご心情と、総てを以前あったように戻したいというご気概をひしひしと感じました。


本堂北西隅柱近くで見つかった当初本堂の
礎石抜取り穴の痕跡
(点線囲み部分)


 その次に、自分の置かれている状況も考えずに、土間に敷瓦を敷こうとする直前の玄関辺りの調査を続けました。玄関は、寺所蔵の建物の間取りを記した最も古い絵図面に描かれてなく、最初から建てられていなかったのではとの解釈もできました。
 しかし調べてみると、やはり西方1メートル付近から礎石の抜取り穴の溝状の痕跡がでてきました。しかも、その溝状の痕跡近くから下須甕(げすがめ)が見つかりました。この甕は、雪隠(便所)のために据えられたもので、当初本堂に建てられた玄関の東側の外軒内は、小用の雪隠だったことを物語っていました。
 一般的に、本堂の玄関脇のこの場所は雪隠に充てられることが多く、当初本堂もそうだったことになります。再建本堂でも、同様の位置に雪隠があったことは、絵図面や記録から判っています。再建本堂は当初本堂より1メートルほど南東に移動して建てられたので、当初本堂の便所が玄関の内側から見つかったのです。
 下須甕の中の土を半分だけ掘ってみると、炭と化した木片、赤く焼けた土壁片、錆が巻いた釘が詰まっていました。当初本堂の焼失直後、寺僧らで後片付けを行ったのでしょう。400年の時の隔たりが瞬く間になくなり、その場に遭遇したかのようにその時のことが頭の中を去来しました。


玄関内側から見つかった当初本堂の玄関の
礎石抜取りの溝状痕跡と雪隠跡の下須甕


下須甕の半分の土を掘ったところ


 どうにか、最後の最後になって私の当初の想いは遂げることができました。これからは、再建本堂の修理工事の完結に向けて全力疾走です。

     
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玉林院逍遙──(十)

   
  幕末維新に消された男〜小出大和守−[後編]  

歴史研究家 あさくら ゆう

 勘定奉行から北町奉行へ
 小出大和守は小栗上野介の推挙により慶応3年7月27日に勘定奉行の一人となりました。
 小栗上野介は文政10年(1827)に生まれた旗本で、万延元年(1860)、日米修好条約の締結の際、渡米した優秀な人物でした。この渡米経験から、日本の防衛力の非力さを知り、勘定奉行を歴任しつつ、横須賀の造船所建設に尽力し、フランス軍の士官を呼んで洋式軍隊を創設する等、日本の近代化に貢献しました。そういった改進的な行動のため、罷免と復帰が激しく、内心、自身を助け、支えてくれる人材を探していたのです。


小栗上野介(日本肖像大辞典)

 小出はまさに適任でした。小出は小栗に抜擢された期待に応えるため、自らの領地の高直しを行いました。石高を上げればその分、年貢に反映するにもかかわらず、断行したのは小出に私心がなかったことによるのでしょう。このように、自身の身を削って幕府の財政を立て直すという見本を見せました。
 そして次に行ったのは貨幣の改鋳でした。これは、昔の貨幣を元の金属に変えて、再度、貨幣を製造することによって発生する金属等の、いわゆる「埋蔵金」を幕府の資産にすることで、財政再建を図ったのです。そのため、小出は10月3日、金銀座掛、および吹立方に任命されました。
しかし、時の流れは激変しました。同月14日に幕府の将軍職にあった徳川慶喜は大政奉還により政権を返上してしまい、小出は留守居役異動となりました。せっかく始動した再建計画は見事に頓挫してしまいました。
 悶々としているなか、さらに討幕の波は竜巻のように日本全体を巻き込みました。朝廷は遂に「王政復古の大号令」を発布し、徳川家に辞官納地を求め、さらに薩摩藩が江戸で起こした騒乱で、ついに幕府は薩長連合との抗戦を固めました。このとき江戸で抗戦派の筆頭だったのが小栗で、小出は抗戦派の台頭が幸いし、北町奉行に抜擢されました。

 辞職、そして最期
 慶応4年1月3日、いわゆる「鳥羽伏見の戦」が始まりました。ここで幕府は散々に敗北し、最期は錦旗を薩長軍が掲出したことによって幕府側は賊軍となりました。そのため、徳川慶喜は江戸へ帰還いたしました。このころ、小出は万一、官軍と戦争になった場合を想定して、余剰となった旧型兵器を町人へ提供し、江戸市中の防禦を固めました。
 そのとき、幕府で御典医を務めた松本良順と知り合い、松本を北町奉行の幹部に迎えました。松本は被差別部落の総領だった弾左衛門と友人の間柄でした。
 実は小出の領地にも被差別部落が存在しました。ただ、小出は差別という偏見でなく、被差別部落の富裕さ、統率力の優秀さをよく知っていました。そこで小出は弾左衛門を北町奉行の与力格として士分の位を与え、その部下の賎称を廃しました。弾は御礼に小出への協力と松本が治療を行う病院の建設資金を提供しました。そのときに松本の縁で知り合ったのが新選組でした。


近藤勇(鳥屋部家蔵、足立区立郷土資料館提供)

 近藤勇率いる新選組は京都の治安維持部隊で、北町奉行には格好の適材でした。ちょうどそのころ、上司だった小栗上野介は徳川慶喜の叱責を買い、罷免され、知行地に隠棲していたので、いまは小出が抗戦派を支持する唯ひとりとなっていました。それを恭順派が知るところとなり、小出は2月16日に辞職に追い込まれました。
 ところが、小出は後任の人事をかつての腹心だった石河河内守(駿河守改め)据えることに成功しました。そのおかげで、甲州で壊滅しかけた新選組を立て直すため、五兵衛新田(現東京都足立区)という地を近藤たちに提供し、幕府陸軍隊として再興させることに成功しました。
 しかし、時の趨勢は動かすことはできずに、4月に官軍は江戸城へ入城し、幕府は消滅しました。小出は体調不良も重なり、隠棲していましたが、山陰道總督の命により領地周辺の久美浜方面への鎮撫に尽力しました。
 明治2年(1869)6月22日、仕事の激務がたたり、体調を崩した小出大和守は東京へ戻りました。そして江戸の菩提寺である天真寺で家来の足立豊次郎の介抱のもと、療養をしていました。
 この日、足立の留守中に事件が起こりました。樺太交渉の不調を小出の責任と誤認した無頼の徒が刺客として小出を襲ったのです。病床の身では抗することもできず、小出大和守は39歳の生涯を終えました。
 帰宅した足立は小出の惨状を嘆き、悲嘆しましたが、もしこのまま遺骸を江戸におけば、また無頼の徒に蹂躙される恐れを危惧し、自身の菩提寺である京都の玉林院へ埋葬し、墓碑を建立いたしました。
 この献身的な行為のため、平成の今日に至るまで、墓所は玉林院で大切に守られて現在に至ります。
 この墓所とともに小出大和守の業績は幕末維新史に残されてゆくことでしょう。(完)

参考文献:
国立公文書館蔵 多門櫓文書(幕府の公文書)
和田山町の歴史 2 和田山町
慶応四年新撰組近藤勇始末 あさくらゆう 崙書房出版


     
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本堂修理委員会だより

   
 

事務局長 杉原 賢一

 

 本堂修理工事は完成まで一ヶ月を切り、関係者の動きも活発になっており、いよいよ総仕上げの最終段階に入っております。
 外観は完成しており、残っているのは主として内装面です。壁工事は壁の乾きが悪く遅れ気味になっていますが、全体としては順調に進んでいます。建具(修理・新調とも完了)・表具(襖の修理は完了)は、たてあわせに入っています。畳(80枚)は別注しております。
 なお、東司(とうす)の方は年内ぎりぎりになる見込です。
 一方防災工事の方は、貯水槽は完成し、目下ポンプ室の工事が進んでおります。あとは配管とモーターの設置を残すのみで、こちらの方も来年3月末の完成をめざし順調に進んでいます。
 寄付金は残念ながらほとんど動きがありません。11月末の寄付金は、合計で1億2948万2千円となっております。これに寺の負担金3千万円を加えますと、1億5948万円となり、本堂修理工事に必要な自己負担金1億5933万9千円を14万3千円上回ることになり、お陰様でなんとか必要資金を確保することができております。
 ここまでやってくることができましたのも、ご関係の皆様方の力強いご尽力・ご支援の賜であり、心より厚く御礼申し上げます。今後とも引き続きよろしくお願い申し上げる次第です。
 なお、防災工事に伴う自己負担金1千269万円は、知恵を絞っていますが今なお苦戦しております。ご尽力を賜れば望外の幸甚と存じ上げます。
 工事完成に伴う行事の予定は次の通りとなっております。
(平成20年12月3日記)

本堂修復完成行事予定

○檀家各位に対する披露
平成21年3月20日(祝・金)春分の日

彼岸会の法要に併せ、檀家の皆様方に対し、感謝を込めて披露させていただきます。

○竣工式
平成21年4月5日(日)

開祖忌に併せ工事関係者に対し感謝を込め、内輪で落慶法要を営みます。

○記念大茶会
平成21年4月26日(日)

檜皮葺による本堂修復工事の完成を祝し「本堂修復完成記念大茶会」と称し、茶会を開催させていただきます。

○一般公開
平成21年5月の連休中の3日間

本堂修復工事の完成に対する幅広い皆様方のご尽力に対し、感謝を込めて一般公開をさせていただきます。

     
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編集後記

   
 

◆一年一年と積み重ね、6年。とうとう、竣工の時を迎えようとしています。四百年の命が解体という大手術を受けて、再び四百年、五百年の命を保つことができます。日本で最初の医学校を創った医師曲直瀬道三を祀った寺として…。
◆平成の大修復工事を後押しするため、「しょうりん」を発行してきました。皆さま、ありがとうございます。これからもどうかよろしくお願いいたします。(賀)

 
     
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