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平成20年3月1日
■目次■

・<襖引手金具>
・<修理事始−素屋根解体始まる−> 修理担当 森田 卓郎
・<幕末維新に消された男〜小出大和守−[前編]> あさくら ゆう
・<本堂修理委員会だより> 事務局長 杉原 賢一
・<編集後記>
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【襖引手金具】

   
   

 襖には開け閉めのための引手金具がついています。かの桂離宮には、いろいろな持ち味のあるデザインされた精巧な引手があり、また二条城には御殿引手と称される豪華なものもあります。玉林院の引手は木瓜形で、非常にオーソドックスなもので、時代を通して使われています。よく観察すると、使われていた引手には形は同じでも時代差が認められるものもありました。大別すると4種類となりますが、当初のものが圧倒的に多く残っていました。

     
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修理事始 −素屋根解体始まる−

   
 

玉林院本堂修理事務所より[十七]

 

修理担当 森田 卓郎


 昨年の12月末までに、本堂と玄関を檜皮葺の屋根に復原する工事を総て終えました。そして、2月からは、いよいよそれを覆っていた素屋根等の仮設物の解体が始まりました。修復工事も終盤を迎えようとしています。
 見る見るうちに、素屋根の手前にあった仮設物が外れてゆくと、あらためてその大きさに驚いてしまうほどの丸太組の素屋根がそこにありました。素屋根の中には、今まさに新生なった本堂の建築群がデビューの時を静かに待っています。今まで護られてきたその丸太の覆いを一つ一つ外してゆくとともに、陽光の下に輝きながら力強く一歩を歩みはじめたかのように見え、とても明るく嬉しい気持ちになりました。


写真1:大きな本堂素屋根(平成20年2月中旬撮影)
手前の仮説物が解体されて全体が見渡せる


 仮設を外してゆくと、とても心なごむ光景を目にしました。
 5年前、本堂の修復工事が着手した頃、仮設物建設のために、その範囲にかかる樹木の主なものは移植してもらいましたが、やむを得ず伐採したりあるいはそのままにしたものもありました。通常、工事期間も長いこともあって、仮設物の中に入ってしまった樹木は枯れてしまいます。
 しかし、素屋根手前の仮設物を取り去ると、ポツンと一本取残されたミカンの木に、たわわに実がなっていたのです。仮設物内の人目につかないところにあったので、少なくとも私は気にも掛けずに5年間が過ぎましたが、耐えしのいでくれていたのでした。
 和尚様に伺うと、先住の和尚様が植えられたものだそうで、正月のお飾りなどにも使われているそうです。
 その反対に、思い出す度に心を痛める樹木もあります。それは、今回の修復のメインの一つである廊下棟を復原するのに、邪魔になるので移植したチャボヒバの木です(旧のトイレの脇にたっていました)。この木も先住の和尚様が植えられて大切にされていたもので、とても立派に育っていました。植木屋さんは、こんなに大きなチャボヒバは大変珍しいといっていました。
 必要に迫られ、2年前の冬の寒い日に移植は行われました。根切りしたチャボヒバは、鴻池家の墓所の空いた一角まで、大勢の植木職人さんの手によって引かれていきました。
 その後は、何とか順調に根付いてくれたように見え安堵していましたが、その年の夏は異常な暑さで、しかも運悪く周辺の樹木の枝払いが大掛かりに行われていたため、直射日光をまともに受けることになり、かなりのダメージを受けてしまいました。みるみる元気がなくなり、栄養剤やお酒を注ぎましたが、残念ながら緑を回復することはありませんでした。
 修復工事によって、やむを得ず本堂周辺の草木にも犠牲を強いてしまいました。素屋根が総て外れて本堂修復完成後には、樹木も回復しあるいは周辺も整備されて、再び緑に包まれるれる本堂になることでしょう。


写真2:本堂素屋根を鳥瞰(平成20年2月中旬撮影)
紫野高校屋上から解体風景を望む
本堂周辺の余地が無いなかで、よくもこんな大きな素屋根が建てられたものだとつくづくこれを眺めて思いました。


写真3:解体風景
気合の入った大きな掛け声のもと、太い丸太は外されていく

     
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玉林院逍遙──(九)

   
  幕末維新に消された男〜小出大和守−[前編]  

歴史研究家 あさくら ゆう

 はじめに
 玉林院境内墓地の一角の隅にぽつんと三基の墓碑があります。そのうち、真ん中に鎮座するいかにも位の高そうな墓碑銘には「小出三秀府君之墓」と刻まれています。
 この人物が何故玉林院に埋葬されたのかは由来も伝承もなく、不思議ですが、どのような人物さえも伝わっていなかったことも事実のようです。
 しかし、本格的に史料を紐解いたとき、この人物こそ、幕末の日本において、重要なキー・パーソンだった人物だったことがわかりました。
 一例を挙げれば、現在でも日本国がロシアに対して交渉を行っている北方領土返還問題です。この交渉の根拠となっているのが明治4年(1871)にロシアと締結された「千島樺太交換条約」ですが、この条約の基礎を作ったのがこの人物なのです。
 この幕末のフィクサー、小出大和守秀実について、簡単ながら述べてゆきたいと思います。

 家 系
 小出家は出石藩主、小出家(のちに絶家)からの分家で、現在の兵庫県朝来市に千五百石の知行地を持った旗本でした。陣屋を土田に置き、当主は代々江戸で暮らしておりました。
 秀実は天保2年(1831)、幕府旗本土岐頼旨の子として生まれました。
 頼旨は開明性に優れ、外国との交渉にあたる下田奉行や浦賀奉行に抜擢された人物で、この優秀な父のもとで秀実は育てられました。
 嘉永5年(1852)、当時小普請役だった小出権之助に実子がいなかったことから養子となり、この年に家督を継ぎました。翌年、実父頼旨の勤める大御番組に抜擢され、実父の庇護のもと、勤勉に励みました。

 箱館奉行
 文久2年(1862)、秀実は箱館奉行に抜擢されました。当時の箱館は外国との数少ない貿易港でした。そのため、日本の風土、文化を知らない外国人とはトラブルが絶えず、問題は山積しておりました。
 いままでは、トラブルがあると、治外法権を主張され、そのままなし崩しにされるのが通例でした。
 このような治安状態が、無法状態をエスカレートされ、秀実の就任時にはピークに達していたといってもよい状況でした。
 そのようななかで日本を揺るがす大事件が起きました。英国人によって行われた「アイヌ人骨盗難事件」です。 英国人がアイヌの調査のため、墳墓を盗掘し、その遺骸を英国本土に持ち帰ったのです。
 当時の日本の国法ではシーボルトが追放されたように、スパイ行為の一環とされ、とてもそのようなことは許されておりません。
 秀実はついに起ち上がり、いままでの弱腰外交を打ち破る彗星のごとく、憤然と箱館領事ワイスに対し、断固返還要求をおこないました。
 当時、ワイスは日本人を軽視しており、そのような事実はないと突っぱねました。しかし小出は引き下がりませんでした。奉行所員に徹底した捜査を指揮し、ついに盗掘に携わった長太郎という男を捕らえ、確実な証拠をいくつもつかんだ上で、再度ワイスに談判いたしました。
 このような状況でもワイスは秀実を嘗めきっていました。すでに盗骨は英国本土に送られており、手元にはありません。ワイスはてきとうに別の遺骨を集め、返還いたしました。
 このような態度についに秀実も実力行使にでました。「この遺骨は過日盗まれた遺骨ではないので返還する」と、送られた骨を返却し再度本物を返還することを要求したのです。
 ここに至って事の重大さを悟ったワイスは急いで横浜領事のパークスに助けを求めました。しかし、日本の国法を犯しただけでなく、偽証につぐ偽証では英国に立場はありませんでした。
 翌年、ワイスはこの事件の責任を取り更迭され、後任のガワーから、ようやく盗骨を返還させることに成功いたしました。秀実の勝利です。
 その他、箱館に築造された五稜郭に奉行所の移転を行う等、いくつかの手腕を幕府から評価されました。このときの幕府は外交政策にかなりの失策、遅れを取っており、いくつもの案件が山積しておりました。この秀実の勝利は幕府には願ってもない出来事でした。
 このような経緯から秀実はいまの外務大臣にあたる外国奉行へと昇進することとなりました。(続く)


小出大和守(東京大学史料編纂所蔵)
     
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本堂修理委員会だより

   
 

事務局長 杉原 賢一
 玉林院の本堂解体修理工事は順調に推移し、工期はあと十ヶ月を残すのみとなり、いよいよ仕上げの段階に差し掛かっています。
 工事の状況ならびに今後の見通しにつきましては、1月1日付の前41号でご報告申し上げました通りで、順調に進捗しています。
 本堂の檜皮葺や聴呼の間の柿葺は完成し、素屋根を中心とする仮設物の解体撤去が進んでおります。
 この後の修理工事は、壁、建具、表具、電気設備等、内装面が中心となります。それ以外では落縁組立、外構整備、東司建設等となり、予定通り年内に完成いたします。
 寄付金の方は、残念ながらほとんど増加しておりません。前号でご報告しました通り、百万円の未達のままです。引き続いてのご支援、ご協力のほどお願い申し上げます。
 修理委員会の枠を少し外れますが、今回は特に檀家の皆様方に対し、ご報告やお願いをさせていただきたく存じます。
玉林院檀家の皆様へ

 お陰様で修理工事は予定通り年内に完成する見通しとなってまいりました。これも檀家の皆様方の暖かいご支援・ご協力の賜と心より感謝申し上げます。
 修理完成後のことですが、ご承知のように本堂の檜皮葺の屋根は35年ないし40年周期で葺き替えることが必要です。このための費用は現在の貨幣価値で約2億円、補助金が出るとして、自己負担金は約5,000万円が必要と試算されています。この必要費用をどのようにして計画的に積み立て確保していくかが、今後の主要な課題となっています。
 昨秋の彼岸会にご出席の皆様方に対しましては、檀家と玉林院との関係、具体的には墓所の永代使用と管理料について、概ね次のようにご説明し、ご理解賜ったうえでご賛同を得ています。

@玉林院の墓は約350墓あるが、護持会費負担者は約130名で、残念ながら無縁化が進んでいる。
A少子高齢化が進むなか、今後ますます無縁墓所化が進むと懸念されている。
B玉林院墓所の永代使用権に関し、今までは檀家と寺との口約束だけで、文書による契約関係がない。
C文書による契約関係がない場合、無縁墓所を整理するためには多大の費用と時間がかかる。
D護持会費はあくまでも自主的なもので、強制的なものではない。(具体的には、支払わなくても墓所の使用は続けられる)
E玉林院には安定的な必要収入源が乏しいうえ、定期的に境内の整備や構築物の修理が必要であり、収支は構造的な赤字体質となっている。
Fこれらの現状を踏まえ、また将来の檜皮の葺き替えのための積立金(約5,000万円)を確保していくための具体的な対応策が必要である。
G墓所の既使用契約の現状を追認して「墓籍簿」で使用墓所を特定のうえ、新たな負担無しで契約書を取り交わす。(旧厚生省の雛形を参考に、玉林院に適合するようにした「玉林院墓地使用契約書」で、新規契約者に対しては既に使用開始している)
H玉林院は墓所の管理整備のため、契約上、墓所使用者に対し管理料の請求ができる。
I墓所使用者は毎年、玉林院に対し管理料を支払わねばならない。
J管理料の長期未払者は、墓所の使用権を喪失することがある。
K当面管理料は年2万円とし、内1万円は修理積立金として、寺の責任において長期的に積み立てていくこととする。
L管理料は、物価の変動等により改定できる。
M墓所を相続した場合は「地位承継届出書」により、寺に届け出なければならない。
N「護持会」は存続しており、引き続き護持会費は信徒様を中心に幅広く受け入れていく。

 以上の通りですが、ご同席されていなかった檀家様に対しましては、来る3月20日の春分の日、玉林院彼岸会会場にて再度ご説明させていただきたく存じますので、ぜひご出席賜りますようお願い申し上げます。
 席上、忌憚のないご意見、ご要望、ご質問を承りたく存じます。そのうえでご理解いただき、ご賛同賜りますよう、よろしくお願い申し上げる次第でございます。

 
     
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編集後記

   
 

◆修復工事のため、かえでや梅、椿の木も、茶花も、野菜畑もなくなってしまった境内ですが、春の陽を浴びて、素屋根の取れた檜皮葺の本堂が優美な姿で見下ろしています。「ごめんなさい、また育ってね…」と。
◆微力なお寺、口数の少ない和尚が、いかにこの大事業を成し遂げられるかと考えた末、「しょうりん」の誌面を借りて工事の状況を発信することになったのでした。
◆素人作りではありますが、これまでご拝読くださったことを感謝いたします。今後も寺の歴史を辿り、また皆様方との交流を深めていけるような寺報でありたいと思っております。(俄)

 
     
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