第32号

平成17年1月1日
■目次■

・<謹賀新年> 玉林院住職 森 幹盛
・<特集 −レポート− 大徳寺保育園創立50周年記念式典>
・<修理事始−小屋組の復原−> 修理担当 能島 裕美
・<編集後記>
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謹賀新年 

   
 
絵 木代 喜司
 

 昨年一年間、あらためて日誌を繰ってみるとずいぶん前のことと思っていたことがまだそれほど日時が経っていなかったり、その反対に最近のことと記憶していたことが一年以上前のことであったりと、日時の遠近感が曖昧になったように思います。これは毎日忙しさに追われているためでしょうか、それとも老化現象のひとつでしょうか。
 年末近く、皆様から保育園開園50周年、寺創建四百年記念式典行事をとのご提案をいただき、多くの方々のお力添えにより盛会裏に無事円成いたしましたこと改めてお礼申し上げます。開園当初の写真を見ますと園舎周辺には塀もなく、建物も木造平屋の鍵もない建物で誰でも自由に立ち寄れる雰囲気です。児童を取り巻く環境も、最近は出入り口に鍵をかけろ、不審者に気をつけろ等々の役所からのお達しに緊張します。ガスも水道もなく、援助物資の脱脂粉乳のおやつを煙モウモウのかまどで沸かし、三度の食事もままならぬ家庭も珍しくない時代が、そんなに遠くない時期まであったことを忘れたくないものです。一年がよき年でありますよう祈念いたします。

玉林院住職 森 幹盛

     
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特集−レポート−

   
  大徳寺保育園創立50周年 記念式典
─新しい時代に向けて、いのち輝く子らとともに─
 

平成16年12月11・12日

簡素にして浄らか ぬくもりと慈愛に満ちた式典

 名残の紅葉に冬の陽光が降り注ぐ美しい日。園長先生でもあるご住職に導かれ入場した園児の、献燈献華により式典は始まりました。正面には母子観音絵図と、ご先住森宗秋師の遺影。法輪の刺繍の入った式典用ガウンを身につけた園児たちは、小さな手に手に、蓮華をかたどったろうそく、菊の花束を捧げ持ち、一歩ずつ中央台の前へと進みます。その緊張の面持ちの、なんと真摯で清らかなこと。燈華を手向け、ご住職夫妻に並んでごく自然に手を合わせる子供たちの姿に、古刹の懐に抱かれ、仏さまとともにある保育園ならではの、日々の教えがうかがえます。

 焼香のあと、薫香たなびく中で誦される般若心経、消災咒、本尊回向文。ご住職の声に来賓の大徳寺の和尚様方の声が和し、式場の空気はいよいよ厳かに。年長児による仏教歌「四弘誓願」に続いて園長挨拶。そして来賓お二方のご挨拶。50周年の感謝を述べられる園長に、京都市福祉局子育て支援部 今井豊嗣様からは「子供をめぐる殺伐たる事件の絶えない昨今こそ、50年の経験、ノウハウを生かした保育を」とのエール。また大徳寺本山宗務総長 神波東獄師は、ご先住に可愛がられたご自身の小僧時代の思い出話を交えつつ「賛否両論ある中で、早くから子育ての大切さを認識し、保育園創立を決行されたご先住の英断は画期的なもの。今後ますます、すぐれた人材の育成を」との祝辞。いずれのご挨拶も簡潔な中に温かな心の籠もる印象的なものでした。

美しい「音」「香り」「想い」を捧げる清々しくおおらかな奉納会

 引き続き行われた奉納会のオープニングは園児たちの元気な合唱。『ありがとうおしゃかさま』では「世界平和の教えは、地球の仲間の宝もの」と三拍子のリズムに乗せて平和への願いを。『大徳寺保育園のうた』では「ダ・イ・ト・ク・ジ!ダ・イ・ト・ク・ジ!」と歌う園児達の誇らしげな表情に、深い愛情に包まれる中での、のびやかな園生活が見えるよう。
 独唱は、20年来、園で歌唱指導を担当される声楽家、福代永子先生(大徳寺塔頭 正受院ご住職夫人)。唱歌『富士山』、カンツォーネ『マンマ』の2曲は、脈々と受け継がれる親の愛をテーマに選ばれたものとか。「からだに雪のきもの着て、霞の裾を遠く引く、富士は日本一の山」、「辛い時にもバラの香りとやさしい微笑みで包んでくれるマンマ…」幾千の言葉を聞くよりも素直に、美しい国に生を享けた喜びや、母親の愛の在り方が胸に沁みてゆく、妙音の不思議。この福代先生や、午後の奉納会で琴の演奏をされた小川正子先生が指導にあたられる当保育園では、NHK交響楽団などで活躍する卒園生も輩出しているのだそうです。

 そして迎える奉納会のクライマックスは、ヴァサンタマラ舞踊団、シャクティさんのインド舞踊。演目は釈迦の十大弟子の一人であり、実子でもあるラゴラの修行から悟りを得るまでを題材にした創作舞踊『ラゴラ』、そしてヒンズー寺院に生涯を捧げた踊り手が、伝承発展させてきたという『マニプリ クチプディ』。大地を踏み鳴らす足拍子、響き渡る足輪の鈴。からだ全体で命の鼓動を刻み、信仰の歓びを表現するエネルギッシュな踊り。舞台も照明もないことをものともせず、魂に訴えかける音と肉体の表現に、舞踊が本来、神仏に捧げるものであったことを痛感。最後は踊りながらの散華で、美しい音と香り、想いに彩られた奉納会は幕を閉じたのです。

心和む茶席、一字納経、そして「本堂修復」現場見学

 奉納会が終わると、列席の人々はいくつかの班に分かれて、茶席や納経、修復現場へ。多くの参列者がスムーズに各所を回れる人数や時間の配分には、保育園の先生方はじめ茶席、現場など各スタッフの相当の打ち合わせ、配慮があったことと思われます。
 茶席は「洞雲庵」と「新茶室」の二席。会記は別記の通りですが、ご先住筆の掛物はじめ、現ご住職絵付けの棗、園児のおおらかな絵が描かれた茶碗も交えての道具立てのお席は、いかにもこの日にふさわしい心和むもてなし。お茶に親しむこともまた、ごく日常的な園での暮らしの一端である様子。今は無邪気にご住職からお茶の手ほどきを受ける園児たちは、いつの日か、恵まれた環境で育まれた幸運に気づくのでしょう。

 写経、納経も、般若心経の276文字を、一文字ずつ木札に写し、納めるというアイディアのあるもの。老いも若きも、一人ひとりが心経の一字を書した木札は、祈念の後、大屋根の天井裏に納経。次回修復の折には、祈念の証が次代の人々に伝わる「修復を想う心」のリレーです。
 修復現場では、担当の方から、修復当初から現在に至るまでの過程や今後の予定のわかりやすい解説。解体が進む中で、創建にあたった先人が、いかに木材を厳選し、またそれを大切に使っていたか、細やかな気遣いや優れた技量の跡が数多くあったとの談。今回修復に携わる人もまた、その想いを受け継ぎ、使える木材にはスミを打ち直し、穴の位置を変えつつ、できる限り再利用されるそう。また今回の工事については、足場を組む段階から、同じ境内で暮らす園児の安全確保にも、あらゆる工夫、配慮がなされたとのこと。難関多い諸条件の中、さらに心を尽くして行われる修復事業。汗し働く人々をはじめ、この事業に関わる多くの有志、そして時には寝食を忘れて駆け回るご住職夫妻を間近に見る子供たちは、何ものにも代え難い想いの交流や、受け継ぐことの大切さを、理屈でなく肌身に感じていることでしょう。

 2日にわたり行われた記念行事には、来賓の方だけでなく、在・卒園児やその父兄、檀信徒の方々が多く参加。その準備には園児たちも大活躍しました。記念の日をみんなでお祝いするため、0歳から6歳までの在園児たちが、今までに園を巣立った千人以上のお兄さん、お姉さんの顔を、粘土や可愛い工作などで製作。そうして寺院山内や園庭の野点席、修復工事現場を彩った、喜びあふれる顔・顔・顔…。千の笑顔が迎える境内に集い、ともに記念の日を祝う人々のなごやかな光景こそが、開かれた寺院の確かな歩みを物語ります。
 今回の大修復の完了は3年後。それはゴールでなく次の時代に向けてのスタートです。建てるのも、守るのも、伝えるのも、すべては「人」。その「人」を育む保育園の50周年が、修復事業の只中で迎えられたのにも大きな意味があるのかも知れません。


 私事で恐縮ですが、私もある保育園に子供を預けて働く母の一人です。男女雇用機会均等などが謳われても、まだまだ無理解も多く、時には切なくなることも。けれど、保育園に迎えに行き、たっぷり浴びたお日さまの匂いや、絵の具のあとなど、存分に遊んだ証を髪や手にいっぱい付けて飛びついてくる子供を抱き締める時、今日も一日、この子を育んで下さった大きな愛のあることに、どれだけ支えられ、勇気づけられることか。安心して子供を預けられる保育園、先生方の存在意義の大きさを身をもって知る者として、大徳寺保育園の尊い活動に敬意を表すとともに、今後一層のご発展を心よりお祈りし、式典のご報告を終えさせていただきます。
取材・執筆
 小嶋 寿和子

○洞雲庵会記○

掛物

一華五葉開

洞雲(先住・前園長)

紅白椿 蝋梅

 

花入

玉林院創建四百年記念

香合

三番叟

藤谷芳哉

袱紗

竹に看の字 友湖

幹盛(現住・園長)

阿弥陀堂

玉林院常什

炉縁

玉林古木

 

風炉先

若松の絵

洞雲

眞台子

 

皆具

金襴手松青波文

手塚石雲

茶器

黒 玉の絵

幹盛

茶杓

竹 松葉蒔絵 南明古材 銘「蛙圃歌」

幹盛

茶碗

高台寺焼

雫碗

加古勝巳

仲良し

絵 大徳寺保育園園児

火箸

宝珠頭

玉林院創建四百年記念 幹盛好

玉林好「洞雲」

柳桜園

菓子

薯蕷饅頭 銘「祝」

紫野源水

干菓子

銘「あけぼの」

手造り

○新茶席会記○

掛物

謝座喫茶

洞雲(先住・前園長)

紅白椿 蝋梅

 

花入

玉林院創建四百年記念

香合

松笠

長岡空権

袱紗

竹に看の字 友湖

幹盛(現住・園長)

大徳寺茶堂

河田松寿

炉縁

根来

玉林院常什

風炉先

東山の絵

洞雲

春慶 糸巻棚

 

水指

桶川

 

茶器

黒 松葉の絵

雅子

茶杓

竹 紅葉蒔絵 南明古材 銘「鴉歩野」

幹盛

茶碗

雫碗

加古勝巳

 

大樋焼

建水

桶川

 

玉林好「洞雲」

柳桜園

菓子

薯蕷饅頭 銘「祝」

紫野源水

干菓子

銘「あけぼの」

手造り

     
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修理事始 −小屋組の復原−

   
 

玉林院本堂修理事務所より[九]

 

修理担当 能島 裕美


 夏から秋にかけて記録的な数の台風に見舞われた今年、普段は雨風から建物内部を守るはずの屋根が解体された本堂と玄関はなんとも頼りなげで、仮説の素屋根に覆われてはいるものの被害をうけては大変と気をもみましたが、なんとか無事に秋を乗り切り、まもなく修理も二年目が終わろうとしています。


 さて、今回も前号から引き続き本堂・玄関の小屋組の復原についてご報告します。屋根葺材が檜皮(ひわだ)に復原されることは前回お知らせしたところです。屋根表面を覆う材料が変更されていたことから、屋根の高さや内部構造についてもなんらかの改変が行われている可能性が高いと推測されました。なぜなら当初の檜皮葺(ひわだぶき)の構造そのままで修理前のような桟瓦葺(さんがわらぶき)の屋根にするということは施工上不可能だったからです。檜皮葺と瓦葺では屋根の軒先の構造に大きな違いがあります(図1)。


図1:檜皮葺、桟瓦葺屋根の軒先構造(断面図)

 檜皮葺では軒先に厚く檜皮を葺き重ねて造る「軒付(のきづけ)」が必要です。一方、瓦葺の場合は軒付は通常ありません。よって檜皮葺を桟瓦葺に改めようとする場合、軒付の厚さの分だけ高くつくられている屋根面を低くすることがよくあります。
 玉林院本堂でも屋根の高さを切り縮めたと予想されましたが、はたして調査を進めると小屋束(こやづか)の上端が切断されている(写真1)、古い筋違(すじかい)の釘打痕を追っていくと野地(屋根面となる下地の部分)を支える母屋桁のところで高さが合わない(図2)など、切り縮めたことを物語る痕跡が出てきました。中には、改造の時に取り外されて別の用途に転用されていた旧小屋束で当初の長さを保っているものが見つかり、それらの部材に残る痕跡や史料の記述等を総合すると、屋根の高さは約33センチメートル(一尺一寸)低くされており、その大改造が行われたのは明治27年(1894)頃と分かりました。よって、今回の修理工事の中では、現状よりも約33センチメートル高い建立当初の高さに小屋組をなおし、軒付のある檜皮葺の屋根をつくることになりました。

写真1:頂部が切断された小屋束。改造により切断されたため、切り口やほぞの造りの仕事が粗い。また、貫穴がほぞ(写真※印)に残っている。

写真2:再び小屋束を立て戻す作業。

図2:当初筋違 痕跡の状況


 さて、修理現場では建立当初のかたちに小屋組を再び組み上げるため、切断され短くなっていた小屋束一本一本の長さを測り、復原する長さにあわせて新しい材料を継ぎ足す地道な作業が続けられています。長さを復原し、経年変化によって捻れたり縮んだりした部材にもう一度正確な寸法で組み合わせることが出来るよう調整を行った小屋束は、もと立っていた場所へ立て直されます。その作業も中盤を迎え、ついに先日、屋根の頂点にあたる棟(むね)を支える棟束が調整を終えて立て戻される日を迎えました。小屋組が取り外されて少しがらんとしていた素屋根(覆屋)の中に、再び材料が組み合わさって小屋組の部材が少しずつ建ち並び、出来上がっていく様は本当にわくわくする、嬉しい光景です。

     
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編集後記

   
 

◆玉林院本堂の修復工事は順調に進んでおりますが、資金的には深刻な問題を抱えての新春のスタートになります。写経や寺の茶室を使っての茶事を行ってはとのご意見もいただいております。その他にアイデアがあればご教示ください。又、一人でも多くの方に平成の大修復の理解と協力をお願い下されば幸いでございます。
◆「お願い。お願いのしょうりん」とのあだ名が付きそう。「オ・ネ・ガ・イ」は本堂修復成就のかけ声とお考えご容赦のほどを…。
(新春より少々焦り気味の「我」)

 
     
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