第24号

平成15年1月1日
■目次■

・<新春> 玉林院住職 森 幹盛
・<玉林院と私 第三回最終話> 京都工芸繊維大学名誉教授 中村 昌生
・<動き始めた平成の大修理> 修理担当 森田 卓郎
・<編集後記>
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新春

   
 
絵 森 宗秋
 

「降る雪や 明治は遠くなりにけり」(中村草田男氏)
 高校生の頃何故か好きな句でしたが、明治大正は遙か昭和も遠くなりつつあります。
 平成初年生まれの子供も思春期。昔なら元服式で大人の仲間入り。最近では元号そのものが遠のきつつあります。
「一九八九年は遠くなりにけり」では何のことか分かりません。尺貫法も同じようなことになるのでしょうか。メートル法は万国共通とのことですが、ヤード・ポンド法は健在のようです。このような話ができる人は既に旧人類……化石なのでしょうか。

 明日からでも客殿解体修理が始まる様な口調でいた先住(先住の日誌では本堂と言わず客殿)が寂して十七年。昭和を経て平成の今、まさに機が熟してきました。
 壇信徒各位の皆様、今後色々とお願いすることが多々有ると思いますが、無事円上致しますよう宜しくご加護お願い致します。
 皆々様の御清福を祈念致しております。

玉林院住職 森 幹盛

     
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玉林院と私 第三回 最終話

   
 

数寄屋師の根性

 

京都工芸繊維大学名誉教授・玉林院修理委員会委員長 中村 昌生

 伝統建築学研究会は、志を同じくする匠たちの和やかな集まりで、勉強会が続きました。昭和四十四年お元気であられた笛吹嘉一郎会長が急に不帰の客となられました。あと西川富太郎さんに会長になって頂き、笛吹巌さんが入会されました。巌さんは一番お若く、この世界の将来を担って頂くホ―プとして期待されていました。
 西川さんは棟梁とは思えない博識の人で、先輩の名工の技を語って下さったのがとても印象的でした。その後中村外二さんに会長になって貰いました。その頃からよく地方の名建築を見に旅をしました。揃って愛酒家で宴を通じて同志の絆が固くなり、やがて今の法人化が実現したのでした。
 巌さんは、笛吹家に入られてそれ程年月が経っていないのに、数寄屋の技術に精通し、仕事に自信を持っておられました。決まって「数寄屋師の笛吹です」という自己紹介でした。数寄屋師の間でも、作風の違いというか、それぞれ流儀があります。巌さんとは共鳴する点が多く、巌さんの主張を歓迎する気持ちがありました。一度だけその根性の激しさに当惑したことがありました。福岡県の茶室の施工に取り組んでいた中村外二さんが、「もう止めたい」と、ひそかにこぼしてこられたのです。平成の名工として不屈の名声を残された外二棟梁をも泣かせた巌さんでした。その巌さんも外二さんも、すでに鬼籍には入られ、協会の活動も大きく変わってきました。そして、「伝統建築」の語は今や時代の言葉となりました。
 「伝統建築」という時、技術は数寄屋に限らず堂宮(社寺建築)も町屋なども含まれます。
  いよいよ玉林院の本堂の修復工事が着手される運びとなりました。この工事では堂宮大工の方々が手がけられます。重要文化財の修理は、一般の建築の修理とは異なる進め方があります。元和七年(一六二二)に建立されてから、どんな経過を辿って今日に至ったか、その実状を丹念に調べ、もし途中で変更された所があれば出来るだけ建立当初の姿に復しなければなりません。経験豊かな京都府文化財保護課の手で、そうした作業が進められるのです。
 調査の過程でどんな発見があるか、楽しみです。寺の伝えを裏付ける証が見つかるかも知れません。 修復工事の無事完成を心から祈念しております。(完)

     
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動き始めた平成の大修理

   
 

玉林院本堂修理事務所より[一]

 

修理担当 森田 卓郎


 待ち望まれていました、重要文化財玉林院本堂の解体修理工事がいよいよ始まりました。五年をかけての大修理工事で、その間、私たち修理を任せられた者が責任をもって実際に工事を進めてまいります。修理工事中は何かとご不便をおかけするかとは存じますが、みなさまのご協力をいただきながら平成の大修理を成就したいと念願しております。

 私は、この修理工事を担当することになり、修理工事着手に必要な調査を行うために、昨年の夏から初秋にかけて足繁く玉林院に通わせてもらいました。玉林院の本堂に一人たたずむ時、もう二十年余り前のひと時の光景が鮮明に想い起こされます。
 学生だった頃、調査で訪れた玉林院での先住和尚からお茶をたてていただいた時のことが忘れられないのです。四百年も前に建てられた本堂の一室、水墨画に囲まれた書院で、ゆったりと静寂な時の流れのなかに身を正し、初めていただいたお茶のことを想い出します。京都に憧れをもってやってきた私は、日常のなかにさりげなく息づく歴史と文化の奥深さに感動を覚えました。
 爾来月日は流れましたが、いままたこの本堂にたたずむことができる不思議なえにしを大切にして、修理工事に努めてまいりたいと心あらたにしております。
 夏の調査では、修理内容・予算・工期をどうするのかという当初計画をたてました。床下から各部屋、屋根の内部、屋根の上にいたるまで、見ることのできる所は一通りこの目で見て、破損状況を確認しながら考え得る修理方法を検討していきました。その結果、今回はどこまで解体して修理をするのかといいますと、本堂の屋根瓦を降ろし、屋根を形作っている構成木材を取り解き、外廻りの桁・柱をたおし、床組は総て外しますが中心部の躯体軸部はそのまま現状を残しての修理を考えています。また、本堂に附属した玄関(唐門)は全部の解体を予定しています。
 本堂の解体に先立ち、修理工事の手始めは、工事区域を設定して工事用の仮設の建設が行われます。修理を行うには欠かせない工事で、その主な仮設物は素屋根といって、解体される本堂をすっぽり覆い、風雨にさらすことなく安全に効率よく工事が進められるように建設されます。本堂は大徳寺山内の他の本堂にくらべてみても特に大きな建造物ですから、それを覆う素屋根ともなりますとかなり大掛かりなものとなります。本堂周辺は樹木に囲まれ、近隣には他の建物がありますので、その建設は資材の搬入も含めて当初から困難が予想されます。
 動き始めた玉林院本堂の修理工事は、素屋根建設の問題にとどまらず、これからいくつもの問題を解決していかなければならないでしょう。修理を実際に担当していく者として、住職様をはじめとする寺関係者の方々とは充分コミュニケーションをとりながら工事を進めてまいりたいと思います。

     
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編集後記

   
 

◆本堂修理が始まります。文才のなさを恥じながらも寺報「しょうりん」を発行し続けたのは本堂修理の成就を願ってのことです。「一念岩をも通す」この諺に励まされ「雨垂れ石を穿つ」の心でこれからも取り組みます。五年後の竣工式に皆様と喜び合えることを胸に描きながら・・・。
◆いよいよ引っ越しが現実に。本堂内の仏様、四百年間に貯まった塵もお宝か否か判別しないものまでも。原稿書きに四苦八苦している暇はないのです。どなたか私を助けて下さいませんか。(雅)

 
     
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